翌日、静かな朝を迎えた。どうやら外は風は収まったようだった。窓からを外を覗いてみると、乳白色の世界だった。完全なホワイトアウトではないものの、すぐには抜けそうにない濃いガスに包まれている。そんな朝は出発の準備も進まない。天気は快方に向かっているはずで、少しでも晴れてくれればと淡い期待を持ちながら荷物をまとめる。
意を決して外に出てみるが、状況は変わらない。これ以上待っていても仕方ないので、8時過ぎに小屋を出発した。2日目は藤原岳から稜線伝いに御池岳を目指す。ここは小さなアップダウンを繰り返すルートで、ウロコの機動力を最大限に発揮できると楽しみにしていた。しかし、雪は深く柔らかく、背中には重たい荷物を負ぶっていることを考えると、シールをつけたほうが良いのは明らかだった。お楽しみは御池岳まで取っておいて、そこまでは移動に徹することにした。
数日間降り続いていると思われる雪のおかげで、トレースはほとんど消えてしまい、終始ラッセルを強いられる。辺りは雪国の里山に似た風景が続いた。これが本来の鈴鹿の冬の姿かどうかはわからないが、かなり条件の良い日に当たったことは確かなようだ。少し谷間を覗けば、滑っていきたくなる斜面があちこちに見られた。そんな衝動を抑えながら黙々と足を滑らせていく。あまり遠くが見通せない中、目視だけでは何度かルートを外しそうになり、GPSで位置を確認しながら進んだ。
やがて森が途切れて雪原に出ると、忽然と高圧線の鉄塔が現れた。ここからはやや細い尾根になり、さらに進んで白瀬峠に到着した。何と峠にはスノーシューを履いた登山者が休んでいた。天候のすぐれない平日、まさかここで人に会うとは思わなかった。話をしてみると、藤原町山口から登ってきたとのこと。白瀬峠は藤原町山口からの登山道との合流点で、冬季に三重県側から御池岳を目指すには、そのルートが一般的なようだ。その方も御池岳を目指すということで、少し休んで一緒に出発した。しかし、スキーとスノーシューは得意な登り方が違って中々協力できない。このころには、やや密度の濃い樹林帯の細尾根を歩くようになっていたので、道具の得手不得手が顕著に現れた。登りは直登の強いスノーシューが速い、そして下りはスキーが速いといった具合だ。そうこうしているうちに離れ離れになってしまった。
御池岳のテーブルランドが近づくと、さらに雪深くなってきた。クロカン用の細い板では膝上、吹き溜まりでは腿まで潜る。それでも何とか進んで行けたのは、降りたての雪だったからだろう。辺りの木の枝にはびっしりと雪が纏わりつき、トナカイの角のように太く成長している。今まで良く見てきたブナの森の樹氷の繊細な感じとはだいぶ趣が違う。
まさに迷宮だった。テーブルランドは微地形だらけで、似たような地形が地図に現れずに存在するのだ。さらに遠くまで見通せないガスが発生している状況では、GPSなしではとても歩けない。御池岳に向かう前にテント適地を探すつもりだったが、周囲の状況があまり掴めないまま御池岳に到着してしまった。
山頂からの視界は無い。標柱の上3分の1ぐらいが雪上に出ている。夏の写真から想像するに、積雪は1.5mぐらいといったところだろうか。山頂には先ほどの登山者の方が休んでいた。どうやら直登ルートで登ってこられたようだ。この雪深いタイミングで単独でスノーシューで日帰りするとは、かなり山に慣れている方とみえる。お昼を食べながら山スキーの話、道具の話をしていると、あっという間に時間が過ぎた。登山者の彼は帰りも長いのでと、急いで降りて行った。
さて、時間はまだ余裕があるが、そろそろ今日の宿を決めなければいけない。当初は御池岳からさらに先に進んだ奥の平を候補に考えていたが、西側に遮るものが無く、あまりいい選択とは思えなかった。悪天候でさらに奥に突っ込む気になれず、通ってきたルート付近の鈴北岳周辺に広がる、日本庭園と呼ばれる窪地に向かった。
日本庭園周辺は、緩やかなボウル状の地形の中に程よい斜度のオープンな斜面と、樹林帯が混在していて、しかも北西の季節風の影響を受けにくい向きに広がっている。その中間地点に小さなマウンドがあり、木も茂って良さそうな場所であったので、そこを宿泊地とした。その後少しずつ視界が効くようになり、期待に胸を膨らませながら寝床の準備や荷物の整理して休んでいると、その時は訪れた。
待ちに待った瞬間である。一日中、霞んだ世界を彷徨ってきた者にとってはとても眩しく、刺激の強い光が目に刺さった。早速滑る準備をし、シールも付けずに登り始めた。ここはやはりウロコで完結させたいという思いがあった。
何も言うことはない。何の説明もいらない。ただただ、思い描いた風景の中に、思い描いたスタイルで、思い描いた通りの滑りをすることができたのが嬉しかった。これほど心震える思いをしたのはいつ以来だろうか。無心に登り、無心に滑った。
しかし、素晴らしい時間はあっという間に過ぎていった。晴れたのは夕方の2時間ばかりのことだった。再び辺りはガスに覆われ、強い風が吹き始め、それが夜通し続いた。再び寒気が入ってきたのだ。それだけに、この奇跡のような2時間は僕に強烈な印象を残した。
(つづく)